東京理科大学のルーツを求めて……【東京物理学校 夜明け編 ④ 】

今回は、私立夜学校を設立した若き志士たちの思いに触れる。

日本で初めての理学を教授する私立夜学校は、東京大学理学部フランス語物理学科に在籍した学生たちの手により創設されたのである。

従来の東京開成学校フランス語物理学科が改組され、1877年(明治10年)に発足した東京大学理学部フランス語物理学科には、22名の学生が学んでいた。同学科は1880年迄の3年間に20名の卒業生を出して、1880年7月に廃止された。卒業生には日本で初めての理学士の肩書が授与されたが、そのうち、塩田仁松は肺結核により若くして死去した。したがって学校創設に参集したのは退学者2名を含めて21名の熱き志士たちである。

東京大学で学んでいたものは、重力、電気、熱学、光学、数学などはいずれも物事や自然現象の根本的な理論を学び、またその理屈を理解するものであった。このような学問なしでは、日本国家の産業の近代化はあり得ないと考えていたのである。彼らは在学当時から、自分たちが学んだことを「卒業後に直ちに若者たちに教えていくことが日本の近代化を押し進めるのに必要不可欠である。」と日頃から議論していた。それぞれ卒業し、昼は役所や師範学校の教員などの仕事をしていた。仕事を終えた夜に参集し議論を重ねていった。その中で課題は2つほどあった。一つ目はフランス語で学んできた学問をフランス語で教授することは無理がある。日本語であれば広く受け入れられる。フランス語を日本語に翻訳することで解決できる。二つ目の課題は難関であった。物理学を講義するには実験機器が必要であるが、実験機器をどうやって入手するかである。しかし、このことは簡単に解決できるものではなかった。いろいろな事を模索する中で出てきたのは、街頭での演説会である。これならば実験機材が無くても広く普及できると考えたのである。しかし、この考えも頓挫せざるをえなかった。この頃、国民が平等に政治に参加する権利を訴える自由民権運動が広く盛んになっていた。明治政府は、1880年4月に運動の弾圧を目的とする集会条例を制定した。この法律の第7条に、政治に関する事項を講談議論する集会に官立、公立、私立学校の教員は臨席することを禁止する定めがあり、理学士たちが集まるだけでも、当局から疑いの目で見られることをわかっていたので街頭演説会はあきらめざるえなかった。

文部省では、「学術を教授するためには学校を創ることが合法的な唯一の道である」との見解を示していた。桜井房記たち有志も、学校の創設を前向きに考え始めたが、実験機器をいかなる手だてで調達するかという難題が未だに解決されていなかった。重力、電気、光学などの講義に使用する実験機材は、すべてフランス、ドイツ、イギリスなどから輸入されたものであり、どれも大変高価なものであった。使いたい実験機器類は、すべて東京大学に所蔵されていることは誰もがわかっていた。とはいえ、国が所有する実験機器を民間に貸し出すことがあろうはずもないと、彼らの議論は再び暗礁に乗り上げた。

こうした中で救いの手を差し伸べようとする者が現れたのが、東京大学理学部教授の山川健次郎である。かねてから山川は、フランス語物理学科の卒業生たちの活動に強く理解を示していた。桜井たち有志は意を決して、恩師である山川に東京大学の実験機器の貸し出しを願い出た。山川は教え子たちの熱意に心を動かされ、彼の上司に当たる綜理(現在の総長に当たる)の加藤弘之に、事情を説明し許可が下るよう相談すると約束した。

1881年3月、東京大学は器械貸付規則を制定した。最初の条文には「理学士にして10名以上結社して学校を創設せんとする者は、願いにより理学器械の貸出を許すことあるべし」と定められていた。理学士の肩書きを有する者は東京大学フランス語物理学科の卒業生だけであり、この理学器械貸付規則は私立夜学校を創設しようとした人々を対象に制定されたものに相違なかった。桜井たちの有志の一縷の望みを託された山川は、見事に期待に応えたのである。当時の日本は、法律関係の実務者育成に関すること、および外国語を修得することが学問の主流であった。法文系の学校は教材を整えることが比較的容易で、教員や生徒も集まりやすいため数多く設立されたが、その中にあって理学に授業内容を絞った私立夜学校の設立計画は、非常に画期的なものであった。

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