東京理科大学のルーツを求めて……【東京物理学校 前夜編 ③ 】

今回は、物理学校の支援者である山川健次郎氏について触れる。

山川健次郎は1854年に会津藩家老職の家で生まれ、会津藩独自の教えである什の掟などを9歳までに身に付けた。さらに日新館での勉学を通じて、誇りある会津武士の子供として育った。1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍となった会津藩と、薩長同盟がきっかけとなり、討幕運動に挺身した薩摩藩・長州藩と激突したが、会津藩は無惨にも敗走し、朝廷の敵の烙印を押されることになった。その後、山川は祖父の命令より、江戸を脱走して会津に来た旧幕臣で、フランス軍事顧問団から訓練を受けた隊士からフランス語を学んだ。この学習により鳥羽・伏見の戦いにおける幕府軍の敗戦は、完全に洋式化された薩長勢の装備と戦術の優秀性であることを山川に強く印象づけることになり、フランス語の習得に必要性を感じた。1868年4月の会津戦争で会津藩は敗戦し、山川たち会津藩士は近隣の村に謹慎となった。

その後山川は戊辰戦争で会津藩と敵対した長州人とその同士の庇護のもと、激動の時代に踏み出すことになる。長州藩などに書生として身柄を預けられた。1870年春、会津藩が陸奥国斗南藩としてお家再興となり、東京に設立した斗南藩校に進んだ。その後、土佐藩邸の私塾に居候し、本格的にフランス語、英語、数学を学んだ。

1870年、北海道開拓次官は、国費留学生の派遣を決めるにあたり、北海道の寒さに耐えうる子弟を探していた。斗南藩に派遣の要請をした。斗南藩の首脳たちは、苦難の道を歩みながらも勉強を続け、語学力を高めた山川を抜擢した。1871年元旦、山川は横浜港から汽船ジャパン号に乗船、太平洋を横断してアメリカに上陸した。山川は単身で日本人のいないノールウィッチという街の中学校で基礎学力の習得に努めた。ここでイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーの書物との出会いが、山川に大きな影響を与えた。山川は「日本を繁栄させるには、政治をよくしなければならない。政治をよくするには社会をよくしなければならない。社会をよくするには社会学の研究が必要である。社会学の研究には生物学並びにその他自然科学の研究が必要である。特に富国強兵のためには物理・化学が盛んにならなければならない。」と考え、物理学を学ぶことを決意したのである。

1872年夏、山川はエール大学の理学校を経て、念願のエール大学に入学し、先進の物理学の学習に取り組み、研さんを積んだ。この頃、日本国内では、留学生の怠惰な生活ぶりが問題となり、日本政府は1874年に成績がきわめて優秀な留学生を残し、あとの者たちには帰国命令を出した。国費留学生である山川にも帰国命令が出て、学費の給付を停止され、学業を続けることが不可能となってしまった。会津藩を背負って留学している以上、学業半ばで帰国するわけにはいかない。山川はクラスメイトに経済的困苦を訴えると、同級生の叔母のハンドマン夫人が「学業成就して本国に帰りたる後は、力の限り本国のため尽力をすること」を条件に学費を援助した。山川はハンドマン夫人の誓約を守り、一層の勉学に精魂込めて励んだ。

1875年、山川はエール大学で物理学の基礎を学び学位を得て帰国し、翌1876年1月には東京開成学校の教授補となり教壇に立った。1877年4月、山川は、東京開成学校の改組に伴い東京大学理学部教授補となった。実験器具の整備や学生の指導等、物理学教育の基礎に情熱を傾けた。日本に科学を根付かせようと尽力をするとともに、新しい学問・教育の場所と内容を創りあげようと模索していた。

1879年4月、山川は東京大学理学部教授に昇進し、日本で初めての物理学講座の教授となった。時期を前後して理学部物理学科から、後の東京物理学校の創設者となる者が次々卒業して、国家の発展をめざし世の中に羽ばたいていった。1883年3月、山川は理学部物理学科の卒業生たちが、理学普及のために物理学校を創ろうとしていることを知った。物理学を教えるためには様々な実験機器が必要不可欠であったが、彼らにはそれを調達する術がなく途方に暮れていた。このことを知った山川は東京大学理学部綜理の加藤弘之に談判し、加藤綜理の許可を取り付けた。機器貸出規則を作り、理学部物理学科の実験機器を貸し出すことができるように手はずを整え、彼らを後押しした。日本で最初の理学を教える私立夜学校は、東京大学理学部物理学科出身の若き卒業生たちの情熱と、それに心を動かされた山川健次郎の協力、支援により誕生するのである。

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