東京理科大学のルーツを求めて……【東京物理学校 夜明け編⑤最終回】

東京物理学校が幾多の困難を乗り越え充実した時期を迎えるまでを述べて最終回としたい。

◇新聞広告で開校を告知

1881年6月13日、桜井たち有志は、『郵便報知新聞』に東京物理学講習所の設立広告を掲載した。『郵便報知新聞』は前島密によって発刊された。草創期は、官庁の公示事項と報道が主な記事であったが、前島は大隈重信が率いる立憲改進党に参加すると同党の機関誌となった。東京物理学講習所がこのような政論紙に設立広告を掲載したのは、新聞を購読する知識階級に狙いを定めたものであると推測される。後年には東京専門学校(現、早稲田大学)、英吉利法律学校(現、中央大学)なども設立広告を掲載している。

同年9月、東京物理学講習所は校主・桜井房記の名義で、東京府知事に私立夜学設立御届を提出した。講習所は、当初から校務・運営を設立発起人の合議制で行う方針であったので、校主は届出の役職にすぎなかった。その後、桜井房記が留学したので谷田部梅吉が所長として、その重責を果たした。

東京府知事に提出した「東京物理学講習所規則」では、設立目的としてもっぱら物理学を広く教えると定めてあるが、物理学を身につけるために算術、代数、幾何の三教科を教授することも記載した。

開校時の授業料は、物理学全科を希望する場合は一ヶ月40銭、数理学全科の修得を希望する者は同30銭、両方の修得を希望する場合は同60銭であった。当時の物価を見ると、うな重が20銭、小学校教員の初任給が5円、東京大学の年間授業料が25円であった。講習所で1年間、物理学および数理学全科を学ぼうとすると、授業料は7円20銭となるが東京大学の授業料と比較するとかなり割安である。理学の修得を志す者たちに門戸を開くため低廉な授業料で運営しようと考えたからである。

また同規則では、教室の賃貸料、実験機器の運搬料、学校運営上の諸経費に関しては、すべて生徒から徴収した授業料で賄い、資金に不足が生じた場合は、教員一同が拠出することで補充し、残金が生じた場合は積み立てて、実験機器類、書籍等を購入する資金にするとしてあった。そして、教員はすべて給料を受け取らないとも定めていた。これらの利用規約から東京物理学講習所が理学普及を目指そうとする奉仕の志から生まれた、斬新な学校であることが明らかであった。

1881年9月11日、東京物理学講習所は東京府麹町区飯田町4丁目1番地の若松小学校の教室を借りて開所した。開所式には東京大学理学部教授の山川健次郎が来賓として祝辞を述べたが、その内容は生徒に対するよりも創設者たちへの激励に聞こえていた。

◇東京大学から、毎日、借り出された実験機器

講習所の最初の生徒は20名ほどであった。実験機器は神田一ツ橋にあった東京大学理学部物理学科から、毎日、借り出された。豪雨の日にも降雪の日も、夕方になると車夫の格好した2名の男が東京大学を訪れて、指示された機材を借り出して天秤で担いだり、戸板に乗せたりして講習所まで運んだ。授業が終了すると、その日のうちに返却した。

学科の分担については、1教科3人で順繰りに教えることにした。そのため自分の授業を行うには、担当時間外の授業も聞く必要があり、教師たちは毎晩、講習所に詰めて指導案を練った。彼らは皆、昼間は教育・研究機関等で重責を担っており、夜は授業を担当し年中多忙な日々を送っていた。

講習所は、入学試験を行わず門戸を広く開放したが、教育方針として一定の点数を超えない生徒には次の課程に進むことを認めないと決めていた。入学できても卒業は困難という「物理学校の伝統」は開所当時から芽生えていた。

1883年9月、東京物理学講習所は「東京物理学校」と改称し、すでに指導的立場にあった寺尾壽を初代校長に選出した。

◇維持会の創立と厳しい会則

1885年9月、東京物理学校と改称してから2年が経過した。寺尾校長は、東京物理学校を維持し、自分たちの理念に基づく理学教育が未来永劫に継続するよう、同志で同盟を結成し同盟規則を策定した。その同盟規則の第2条で、維持同盟者には30円の寄付が義務づけられた。これには分割払いを認めるものの、毎月1円以上の支払いを義務付けた。30円という金額は小学校教員初任給の半年分に相当した。寺尾たちは奇しくも、現行の「東京理科大学維持会会則」に定める「終身会員」に適合する金額を一度に拠金して、困難な時局を乗り切ろうと思いに至ったのである。さらに第3条では、在京していない者および学校の都合、もしくは事故により休講する場合は講義1回につき25銭を罰金として支払わせたのである。「東京物理学校維持同盟」を東京大学理学部教授山川健次郎に報告した。山川は側面から出来る限りの援助を行うと表明した。

その後、校舎はいろいろな理由で転々とするが、神田区の小川町校舎から神楽坂へ移転する20年の間に、小説『坊っちゃん』の主人公が卒業している。現在、東京都公文書館には、この時代の小学校教員免許状授与者の履歴が保存されおり、閲覧すると「東京物理学校に入学、目下通学中」と書いてあるが、中には卒業出来なかった者もいる。卒業か否かは問題視されていない。「東京物理学校」に在学しただけで履歴上の学歴として十分通用していたことを物語っている。

創設者21人が資金を持ち寄って築き上げた東京物理学校は幾多の苦難を乗り越えて、小川町校舎で充実の時代を迎えることになる。

〈引用文献〉 馬場錬成著書『青年よ、理学を目指せ』、森野義男・泉宏紀著『理大 科学フォーラム』(2016年7・8・10月号)、ともに東京理科大学出版センター発刊

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